サッカー好き集まれ(第3,4,5号:ワールドカップ2002年 日韓大会特集)


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最終更新 : 2004年4月

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FIFA2002 Korea Japan
ワールドカップ2002年 日韓大会
ワールドカップ 2002年 日韓大会
  • 第5号 : W杯2002年ドイツ ゴールキーパ オリバー・カーン
  • 第4号 : W杯2002年日韓大会決勝トーナメント試合結果&ホストシティ
  • 第3号 : FIFAの歴史

    ワールドカップ2002年 日韓大会の公式サイトです。



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    No.5 : W杯2002年ドイツ ゴールキーパ オリバー・カーン

    2002年日韓ワールドカップ"ゲルマン魂"

    オリバー・カーンの業績は、所属クラブでの活躍によるものがほとんどである。18歳でカールスルーアーSCのGKとしてブンデスリーガにデビュー、1994年に移籍したバイエルン・ミュンヘンでは、4度のリーガ優勝を果たしている。DBF杯でも2度の優勝、UEFA杯で優勝1回。2001年はチャンピオンズリーグとトヨタ杯優勝という栄冠に輝いた。ミラノで行なわれたバレンシアとのチャンピオンズリーグ決勝では、3回もの相手PKからゴールを守りきり、自己記録を打ち立てた。
    マスコミは、カーンの卓越した業績を何度も表彰してきた。2001年のチャンピオンズリーグ決勝で最優秀選手に輝いたほか、1999年に続いて2度目となる世界最優秀GKにも選ばれた。彼の強さは、弱点がないということに起因している。ライン上での守備であろうが、ペナルティーエリアの掌握であろうが問題なし。ペナルティーエリアから走り出てのプレーまで、カーンにはおよそ欠陥がない。
    だが、ドイツ代表チームにおける活躍に関してだけは、お寒い限りだ。1994年と1998年W杯では、ボド・イルグナーとアンドレアス・ケプケの陰で補欠要員に甘んじた。この状態は、2000年の欧州選手権で初めてゴールの前に立つまで続く。ようやく表舞台に立てたとき、カーンはすでに31歳の誕生日を迎えていた。 数々の華々しい結果とともにサッカー王国の名をほしいままにしてきたドイツだったが、カーンがGKとして初出場した欧州選手権では、稀に見る大敗北を喫してしまう。ドイツ代表は、1次予選終了の段階でひっそりと店じまいするはめとなったのだ。その後、ルディ・フェラーが新監督に就任すると、卓越した能力を文句無しに認められたカーンはチームにおける指導的な地位を与えられ、間もなく代表チームのキャプテンとなった。2002年W杯の欧州予選は、最終ラウンドまでかかってようやく日本・韓国への切符を手に入れたが、これには、確信に満ちた態度でゲームに臨んだオリバー・カーンの貢献するところが大きい。
    バイエルン・ミュンヘンのファンの間では"パウル"というニックネームで呼ばれる野心に満ちたGKは、当分はその手からグローブをはずすことはないだろう。彼の夢は、母国での開催となる2006年W杯での優勝だ。そのときオリバー・カーンはすでに37歳になっているはずだ。
    オリバー・カーン (Oliver KAHN)
    1969年6月15日、ドイツ・カールスルーエ生まれ
    ドイツ代表GK、バイエルン・ミュンヘン所属
    代表戦38試合出場
    188cm、90kg


    上文はMSNスポーツから

    決勝戦でブラジルに敗れゴールのところで悔しさに耐えているところは日本のファンをガッチリ掴みました。一説では決勝戦を除けば警備会社のコマーシャルには万点とも言われました。



    No.4 : W杯2002年日韓大会全試合結果

    決勝リーグの結果

    上図はMSNスポーツから




    グループリーグの全結果

    グループA
    デンマークセネガルウルグァイフランス勝ち点得失点差
    デンマーク1-1○2-1○2-07+3
    セネガル1-13-3○1-05+1
    ウルグァイ●1-23-30-02-1
    フランス●0-2●0-10-01-3
    グループB
    スペインパラグァイ南アフリカスロベニア勝ち点得失点差
    スペイン○3-1○3-2○3-19+5
    パラグァイ●1-32-2○3-140
    南アフリカ●2-32-21-040
    スロベニア●1-3●1-3●0-10-5
    グループC
    ブラジルト ル ココスタリカ中  国勝ち点得失点差
    ブラジル○2-1○5-2○4-09+8
    トルコ●1-21-1○3-04+2
    コスタリカ●2-51-1○2-04-1
    中 国●0-4●0-3●0-20-9
    グループD
    韓  国アメリカポルトガルポーランド勝ち点得失点差
    韓  国1-1○1-0○2-07+3
    アメリカ1-1○3-2●1-34-1
    ポルトガル●0-1●2-3○4-03+2
    ポーランド●0-2○3-1●0-43-4
    グループE
    ドイツアイルランドカメルーンサウジアラビア勝ち点得失点差
    ドイツ1-1○2-0○8-07+10
    アイルランド1-11-1○3-05+3
    カメルーン●0-21-1○1-04-1
    サウジアラビア●0-8●0-3●0-10-12
    グループF
    スウェーデンイングランドアルゼンチンナイジェリア勝ち点得失点差
    スウェーデン1-11-1○2-15+1
    イングランド1-1○1-00-05+1
    アルゼンチン1-1●0-1○1-040
    ナイジェリア●1-20-0●0-11-2
    グループG
    メキシコイタリアクロアチアエクアドル勝ち点得失点差
    メキシコ1-1○1-0○2-17+2
    イタリア1-1●1-2○2-04+1
    クロアチア●0-1○2-1●0-13-1
    エクアドル●1-2●0-2○1-03-2
    グループH
    日  本ベルギーロ シ アチュニジア勝ち点得失点差
    日  本2-2○1-0○2-07+3
    ベルギー2-2○3-21-15+1
    ロ シ ア●0-1●2-3○2-030
    チュニジア●0-2●0-21-11-4



    日韓両国のホストシティ




    日韓両国の競技場



    No.3 : FIFAの歴史

    創設

    国際サッカー連盟(FIFA: Federation Internationale de Football Association)は、1904年5月21日、パリのフランス運動競技連合(Union Francaise de Sports Athletiques)の本部の奥で創設された。創設文書には次の協会の正式代表が署名した。
    ・フランス -フランス運動競技連合(USFSA)
    ・ベルギー - ベルギー・スポーツ協会連合(UBSSA)
    ・デンマーク - デンマーク・サッカー協会(DBU)
    ・オランダ - オランダ・サッカー協会(NVB)
    ・スペイン - マドリード・サッカー・クラブ
    ・スウェーデン - スェーデン・サッカー協会(SBF)
    ・スイス - スイス・サッカー協会(ASF)

    組織の足固め

    最初のFIFA総会は、2日後の1904年5月23日に開催され、ロベール・ゲラン(フランス)を会長に選出した。ビクトル・E・シュナイダー(スイス)とカール・アントン・ヴィルヘルム・ヒルシュマン(オランダ)が副会長に指名された。ルイス・ムリングハウス(ベルギー)が事務長と会計担当に、ルーズヴィ・シュロウ(デンマーク)がその補佐に指名された。FIFAは言わば紙の上で存在しているだけだったため、この先駆者たちは途方もない仕事に直面することになった。FIFAに形を与え、真に国を代表する組織として作り上げ、新しい加盟協会を獲得する必要があった。そもそも、この新たに生まれた組織への加入が英国にとって不可欠であることを、英国に納得させなくてはならなかった。
    FIFAは1909年までは欧州の協会だけで構成されていた。海外の協会は次のような順序で加入した。南アフリカが1909/1910年、アルゼンチンとチリが1912年、米国が1913年。これがFIFAの国際活動の始まりだった。組織の完全な拡大には、まだ長い道のりが残っていた。

    加盟協会の増加

    第一次世界大戦(1914年)の勃発によって、FIFAの活動は大きな中断を余儀なくされた。それでも、小規模なものであったとはいえ、国際的関係が途切れることはなかった。1921年3月1日、フランス人のジュール・リメが第3代会長に就任した。当時48歳のリメにとってFIFAが生涯の仕事になった。第一次世界大戦で揺らいでいたFIFAの会長の座を引き継いだとき、加盟協会数は20だった。英国の協会はまとめて脱退し、ブラジルもウルグアイも参加していなかった。リメ会長の在職中の33年間で、第二次世界大戦があったにもかかわらず、FIFAは信じられないほどの発展を遂げた。この期間は「ジュール・リメ時代」と呼ぶべきだろう。リメ会長はFIFAを再編し、FIFA ワールドカップTMという夢の実現に成功したからである。第5回FIFA ワールドカップTM・スイス大会が開催された1954年に会長職を退いたとき、FIFAの加盟協会数は85にもなっていた。

    最初のFIFA ワールドカップTMの企画

    オリンピックの反響から、独自の世界選手権を開きたいというFlFAの願いはますます強いものになっていた。執行委員会の注目すべき提案を受けて、1928年5月のFIFA総会は、FIFAが主催する世界選手権の実施を決定した。となれば、開催国を決定する必要がある。ハンガリー、イタリア、オランダ、スペイン、スウェーデン、ウルグアイが候補に名乗りをあげた。重要な理由があって、最初からウルグアイが本命だった。2回(1924年と1928年)オリンピックで優勝したウルグアイは、1930年に独立100周年を盛大な規模で祝うことになっていたからである。
    最初のFIFA ワールドカップTMは、1930年7月18日、モンテビデオの100周年記念(センテナリオ)スタジアムで開幕した。世界のサッカーにとって新たな時代が始まった。その4年後、第3回FIFA ワールドカップTMの母国フランスでの開催が決定して、「ワールドカップの父」、ジュール・リメは自分の夢を実現した。FIFA ワールドカップTMは1942年に第4回大会が開催されるはずだった。しかし、1938年のパリ総会では開催国の指名が断念され、1942年のFIFA ワールドカップTMが開催されることはなかった。次の総会は1946年7月1日まで待たざるを得なかった。次回のFIFA ワールドカップTMは立候補国が1つしかなく、ブラジルが満場一致で選出された。

    英国の協会の復帰

    1946年には、英国の4つの協会がFIFAに復帰した。これもまた、アーサー・ドルリーとスタンリー・ラウス卿という先見の明のある人物を見出した、ジュール・リメ会長の外交的手腕のおかげだった。4年後、第5回FIFA ワールドカップTM・スイス大会のとき、ベルンで開催された総会で80歳のリメ会長は引退した。ジュール・リメは1954年6月21日、最初の名誉会長に選ばれた。「FIFA ワールドカップTMの父」は優勝したドイツ・チームのキャプテンに「ジュール・リメ・カップ」を最後に授与して、会長職を離れた。

    50周年

    ベルギー人のルドルフ・ウイリアム・ジルドライヤーがFIFAの第4代会長の職についた。新会長はFIFAの50周年を祝うことができた。加盟協会数は85になっていた。ジルドライヤー会長は副会長としてジュール・リメを25年以上支え、1955年10月に亡くなった。後継会長のアーサー・ドルリーは1956年6月9日に選出されたが、ドルリーはすでに半年以上に渡って暫定的な会長としてFIFAの指揮をとっていた。ドルリー会長は新しいFIFA規約の検討委員会の議長を務め、1958年、第6回FIFA ワールドカップTM・ストックホルム大会を開催した。この大会は非常に順調に運営が進んだ。アーサー・ドルリー会長は1961年、70歳で亡くなった。
    FIFAの運営は、1961年9月28日の特別総会まで、スイス人のエルンスト・B・トメンが担当した。1954年、1958年、1962年のFIFA ワールドカップTM組織委員会委員長として、トメンはFIFAに多大の貢献をした。FIFAの第6代会長には、スタンリー・ラウス卿が選出された。新たに独立した諸国が最初にとった行動の中に、FIFAへの加盟があった。そのため、加盟協会数は着実に増え続けた。FIFA ワールドカップTMのテレビ放映も世界的な拡大に大きく貢献した。民間団体として、FIFAは政府の補助金もその他の組織からの資金援助も受けていなかった。活動資金は厳密にFIFA ワールドカップTMの利益だけでまかなわれていた。リスクを冒さずにこれ以上の活動を行うことができるとは到底思われなかった。そこで、多大な自己犠牲を払って、FIFAは仕事の整理統合と整備にとりかかった。スタンリー・ラウス卿はこれをすべて達成した。貢献を認められて、1974年6月11日、ラウス卿はフランクフルト総会でFIFA名誉会長に任命された。その日、ブラジルのジョアン・アベランジェ博士がFIFAの会長職を引き継いだ。

    新たな時代

    1974年の第39回総会で会長に選出されたとき、アベランジェ博士はサッカーを競技としてとらえるだけでなく、世界的な技術の発展に見合った新しい手段を見つけ、新しい世代に備えるつもりであった。FIFA本部へのアベランジェ会長の就任は、新しい時代の夜明けを告げるものだった。それまで活動資金を4年に1回開催するFIFA ワールドカップTMの限られた収益にほぼ頼っていたFIFAは、いくぶん保守的で、意思決定となると控えめなものだった。運営のエネルギーは、現状の維持に集中されていた。あっという間に、アベランジェ会長は管理指向の組織を、新しいアイデアとそれを実現する意欲に満ち溢れたダイナミックな組織に変貌させた。チューリッヒの実際の住所は変更されていないが、1974年には、12人のスタッフが世界のサッカーの運命を調整するのに使用していたチューリッヒベルクのロマンチックなデルヴァルト・ヴィラの代わりに、いまでは5つのオフィス・ビルで120人を超える職員が増え続ける仕事をこなしている。

    グローバリゼーション

    過去25年間、サッカーは、世界の主要競技として各地に根付いただけでなく、社会、経済、政治のその他の分野でも花開いた。サッカーは、ほかの何よりも、地域、人々、国全体を包み込んでいる。約2億人の現役プレイヤーがいるサッカーは、現在ではレジャー産業の大きな一角を占め、サッカー自体とその他の経済界に新たな市場をもたらしている。

    加盟協会数204

    1998年6月8日、ジョゼフ・S・ブラッター(スイス)が第8代FIFA会長としてジョアン・アベランジェ会長の後任に選出された。パリで開催されたこの第51回FIFA通常総会での会長選出選挙の勝利によって、すでにFIFAで23年間に渡ってさまざまな職責を担ってきたブラッターは、国際サッカー界で最高の地位についた。


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