ドイツ選抜W杯での全戦績 |
3度のW杯優勝、3度のW杯準優勝、2度のW杯3位、3度の欧州選手権優勝、2度の欧州選手権準優勝、1954年からのW杯連続出場、1972年からの欧州選手権連続出場...ドイツ代表栄光の歴史をW杯に限った範囲で全戦績を示します。 (参考)国際サッカー連盟(FIFA: Federation Internationale de Football Association)は、1904年5月21日パリのフランス運動競技連合(Union Francaise de Sports Athletiques)の本部の奥で創設されました。FIFAは1909年までは欧州の協会だけで構成されていましたが、南アフリカが1909/1910年、アルゼンチンとチリが1912年、米国が1913年と欧州以外の海外の協会も加盟していきました。しかし第一次世界大戦(1914年)の勃発によって、FIFAの活動は大きな中断を余儀なくされました。それでも小規模なものであったとはいえ国際的関係が途切れることはありませんでした。オリンピックの反響から独自の世界選手権を開きたいというFlFAの願いはますます強いものになっていきました。執行委員会の提案を受けて1928年5月のFIFA総会はFIFAが主催する世界選手権の実施を決定しました。となれば開催国を決定する必要があり、ハンガリー、イタリア、オランダ、スペイン、スウェーデン、ウルグアイが候補に名乗りをあげました。ある理由があって最初からウルグアイが本命でした。1924年と1928年のオリンピックで2度優勝したウルグアイは1930年に独立100周年を盛大な規模で祝うことになっていたからで、最初のFIFA ワールドカップTMは、1930年7月18日ウルグアイ モンテビデオの100周年記念(センテナリオ)スタジアムで開幕し、世界のサッカーにとって新たな時代が始まりました。FIFAの歴史についての詳細はここをクリックしてください。 |
1945年以前 〜 戦前のドイツ代表は 〜 |
図面左は1934年イタリア大会で右は1938年フランス大会です。 ドイツ代表が初めて代表レベルでの国際試合を行ったのは1908年のことでした。スイスで行われた文字通りの「フレンドリーマッチ」です。まだ代表監督はおらず、選手は協会が招待した選抜選手たちでした。この1908年04月05日のスイスにてのW杯ではないが代表レベルでの第1回国際試合は残念ながら 3 - 5 でスイス代表に破れました。 その後、ドイツ代表はストックホルムやアムステルダムで開催されたオリンピックに参加しました。初めてワールドカップに参加したのは、1934年の第2回W杯イタリア大会で、この時3位の成績。続くフランス大会では、再試合の末、スイス代表に敗れ初戦で敗退しています。このころのドイツ代表は、ナチス政権のもとで占領地で国際試合を行ったり、オーストリアの選手を代表に選出するなど、ナチスのプロパガンダとして利用されていた側面もありました。そして第2次世界大戦の戦況の悪化の中12年間W杯は行われなくなりました。 |
1934年第2回W杯イタリア大会 ..... 3位(参加32ヶ国で優勝はイタリア) |
予選ラウンド | 1934年05月27日 ○ 5 - 2 (H) vs ベルギー代表 (フィレンツェ) |
準々決勝 | 1934年05月31日 ○ 2 - 1 (H) vs スウェーデン代表 (ミラン) |
準決勝予選 | 1934年06月03日 × 1 - 3 (H) vs チェコ・スロヴァキア代表 (ローマ) |
3位決定戦 | 1934年06月07日 ○ 3 - 2 (N) vs オーストリア代表 (ナポリ) |
1938年第3回W杯フランス大会 ..... 1回戦にて敗退(優勝はイタリア) |
決勝トーナメント1回戦 | 1938年06月04日 △ 1 - 1 (N) vs スイス代表 (パリ) |
同上(再試合) | 1938年06月09日 × 2 - 4 (N) vs スイス代表 (パリ) |
1950年代 〜 戦後復興期の希望の光として 〜 |
図面左は1954年スイス大会で右は1958年スウェデン大会です。 1946年6月25日にルクセンブルグで第二次世界大戦後初めて開かれたFIFAの総会で1950年のブラジルでのW杯開催が決まりました。いったん予選通過を決めたチームが辞退したり、既に予選で敗退したチームが参加を認められたり、FIFAから裸足でのプレーを認められなかったインドが辞退したりで最終的な大会参加国はわずか13ヶ国とのことでした。優勝はウルグアイでリオ・デ・ジャネイロのマラカナスタジアムには17万4千人もの大観衆が集まり決勝戦でブラジルを応援しましたが、ブラジルは破れホームサポータの夢がうち砕かれました。さて敗戦国ドイツは東西に分割され、その西ドイツ代表による国際試合が再び行なわれたのは1950年でした。戦後復興で西ドイツ代表が始めて行なったその国際試合は1950年11月22日はドイツ南部の都市シュツットガルトにてスイス代表と戦い ○ 1 - 0 (H) で勝利を収めました。国際復帰してからわずかに4年後の1954年、W杯スイス大会にて奇跡の優勝を遂げました。戦後復興期において、この西ドイツ代表の活躍は、疲弊した西ドイツ国民に希望の光を与えるものでありました。 |
1954年第5回W杯スイス大会 ..... 優勝(参加16ヶ国) |
グループリーグ | 1954年06月17日 ○ 4 - 1 (N) vs トルコ代表 (ベルン) |
グループリーグ | 1954年06月20日 × 3 - 8 (N) vs ハンガリー代表 (バーゼル) |
グループリーグ | 1954年06月23日 ○ 7 - 2 (N) vs トルコ代表 (チューリヒ) |
準々決勝 | 1954年06月27日 ○ 2 - 0 (N) vs ユーゴスラヴィア代表 (ジュネーブ) |
準決勝 | 1954年06月30日 ○ 6 - 1 (N) vs オーストリア代表 (バーゼル) |
決勝 | 1954年07月04日 ○ 3 - 2 (N) vs ハンガリー代表 (ベルン) |
1958年第6回W杯スウェーデン大会 ..... 3位決定戦で敗退(予選参加55ヶ国で優勝はブラジル) |
グループリーグ | 1958年06月08日 ○ 3 - 1 (N) vs アルゼンチン代表 (マルメ) |
グループリーグ | 1958年06月11日 △ 2 - 2 (N) vs チェコ・スロヴァキア代表 (ヘルシンボリ) |
グループリーグ | 1958年06月15日 △ 2 - 2 (N) vs 北アイルランド代表 (マルメ) |
準々決勝 | 1958年06月19日 ○ 1 - 0 (N) vs ユーゴスラヴィア代表 (マルメ) |
準決勝 | 1958年06月24日 × 1 - 3 (A) vs スウェーデン代表 (イエテボリ) |
3位決定戦 | 1958年06月28日 × 3 - 6 (N) vs フランス代表 (イエテボリ) |
1960年代 〜 1966年疑惑のウェンブリゴール 〜 |
図面左は1962年チルリ大会で右は1966年イングランド大会です。 西ドイツ代表が再びワールドカップで優勝のチャンスを得たのは、1966年のイングランド大会でした。しかしサッカーの母国といわれるイングランドで、西ドイツは疑惑のゴールにより失点し、決勝で敗れるという屈辱を味わされました。サッカーにはつきもののホーム有利の判定に泣かされた西ドイツ代表と、判定に助けられての優勝で満足するイングランド。以後続くことになる両者のライバル関係はこの時に確立されたのです。 (参考)ワールドカップ史上、ファンの間でも執行レベルでもこれほど物議をかもした出来事はおそらくないだろうと言われています。ドイツとの決勝でジェフ・ハーストが決めてクロスバーに跳ね返ったボールが本当にゴール・ラインを割っていたかどうかという点で、大きな論議を巻き起こしたゴールも含まれている。これはいまでもサポートの間で決着がついていないゴールシーンで、スコアを3対2としイングランドを優勝に導いたいわゆる「ウェンブリー・ゴール」です。その後1年間さまざまな新技術を利用して、ボールが本当にゴールラインを越えたのか(それとも越えなかったのか)を明白に証明しようという試みが続きました。ロシア人の線審の意見を聞いたあとゴールの判断を下したスイス人のゴットフリート・ディーンスト主審はいまでも世界中のサッカー・ファンの記憶に残っています。イングランドのファンには好ましい記憶として、また一方のドイツのファンにはあまり好ましくない記憶として……。 |
1962年第7回W杯チリ大会 ..... 準々決勝にて敗退(予選参加56ヶ国で優勝はブラジル) |
グループリーグ | 1962年05月31日 △ 0 - 0 (N) vs イタリア代表 (サンチアゴ) |
グループリーグ | 1962年06月03日 ○ 2 - 1 (N) vs スイス代表 (サンチアゴ) |
グループリーグ | 1962年06月06日 ○ 2 - 0 (A) vs チリ代表 (サンチアゴ) |
準々決勝 | 1962年06月10日 × 0 - 1 (N) vs ユーゴスラヴィア代表 (サンチアゴ) |
1966年第8回W杯イングランド大会 ..... 2位(予選参加70ヶ国で優勝はイングランド) |
グループリーグ | 1966年07月12日 ○ 5 - 0 (N) vs スイス代表 (シェフィールド) |
グループリーグ | 1966年07月16日 △ 0 - 0 (N) vs アルゼンチン代表 (バーミンガム) |
グループリーグ | 1966年07月20日 ○ 2 - 1 (N) vs スペイン代表 (バーミンガム) |
準々決勝 | 1966年07月23日 ○ 4 - 0 (N) vs ウルグアイ代表 (シェフィールド) |
準決勝 | 1966年07月25日 ○ 2 - 1 (N) vs ロシア代表 (リバプール) |
決勝 | 1966年07月30日 × 2 - 4 (A) vs イングランド代表 (ロンドン) |
1970年代 〜 皇帝と自国開催で20年目の勝利 〜 |
図面左からは1970年メキシコ大会、1974年西ドイツ大会、1978年アルゼンチン大会です。 続く1970年のW杯メキシコ大会では、準々決勝でイングランドにリベンジを果たすも、20世紀の中でベストゲームの一つとして語りぐさになっている準決勝のイタリア戦にて死闘を繰り広げました。90分を経過しても1対1の同点で、その後の延長戦はリードしているチームが何度も入れ替わる神経戦となりサッカーの語り草となっています。フランツ・ベッケンバウアーは肩を脱臼し、三角巾で腕を吊るしながらもフィールドに残っていましたが、彼の勇気は実らず結局3-4でイタリアに敗れました。しかし3位決定戦で勝利し3位の成績を残しました。なお本大会からイエローカードとレッドカードが導入されました。 そして1974年の自国開催のW杯。皇帝ベッケンバウアー率いる西ドイツ代表は、すでに1972年に欧州選手権を制しており有力な優勝候補の一つとしてこの舞台に立ちましたが、実は東ドイツも本大会には初参加していました。政治的仇敵で隣国でもある西ドイツに対する東ドイツの1対0の勝利は、どちらもすでに2次リーグへの進出を決めているためスポーツという面から見れば大きな意味がなかったかもしれませんが、感情面での影響は確実にありました。西ドイツは衝撃を受けキャプテンのフランツ・ベッケンバウアーはサッカー界では異例の手段で対応し、チームの緊急ミーティングを開きその後テレビに出演し動揺している国民に状況を説明したのです。これは明らかに成功で、とうとうホームスタジアムにて1954年W杯以来の20年ぶり2度目のW杯制覇を果たしました。ちなみに東ドイツは2次リーグ(1勝1敗1分)で敗退し決勝戦には残れませんでした。決勝ではクライフ率いるオランダ代表と対戦。これも今世紀を代表するベストゲームの一つでした。また前回W杯で3度目のFIFA ワールドカップ制覇(1958、1962、1970年)を成し遂げたブラジルによって永久保有されることになったジュール・ルメ杯から「FIFAワールドカップ」と呼ばれる新しい純金製の像に本大会から代わりました。さらに大会ルールも1次リーグのグループ戦に続いて決勝トーナメントを行う形式から、両方の段階をグループで戦う形式に変更されました。 アルゼンチンで開催された1978年W杯は他に類を見ないほど混乱に満ちた大会でした。ビデラ将軍の全体主義支配と人権侵害に対する抗議から大会をボイコットすべきだという議論が前面に出て、サッカー自体は影が薄くなっていましたが、不参加を求める声が広がっていたにもかかわらず、最終的には世界のサッカー国のほとんどはすべてアルゼンチンに集まりました。しかし本大会では前回優勝の西ドイツは全く調子を取り戻さず敗退しました。 |
1970年第9回W杯メキシコ大会 ..... 3位(予選参加75ヶ国で優勝はブラジル) |
グループリーグ | 1970年06月03日 ○ 2 - 1 (N) vs モロッコ代表 (レオン) |
グループリーグ | 1970年06月07日 ○ 5 - 2 (N) vs ブルガリア代表 (レオン) |
グループリーグ | 1970年06月10日 ○ 3 - 1 (N) vs ペルー代表 (レオン) |
準々決勝 | 1970年06月14日 ○ 3 - 2 (N) vs イングランド代表 (レオン) |
準決勝 | 1970年06月17日 × 3 - 4 (N) vs イタリア代表 (メキシコ・シティー) |
3位決定戦 | 1970年06月20日 ○ 1 - 0 (N) vs ウルグアイ代表 (メキシコ・シティー) |
1974年第10回W杯西ドイツ大会 ..... 優勝(予選参加98ヶ国で実は東ドイツも参加) |
1次リーグ | 1974年06月14日 ○ 1 - 0 (H) vs チリ代表 (ベルリン) |
1次リーグ | 1974年06月18日 ○ 3 - 0 (H) vs オーストラリア代表 (ハンブルク) |
1次リーグ | 1974年06月22日 × 0 - 1 (H) vs 東ドイツ代表 (ハンブルク) |
2次リーグ | 1974年06月26日 ○ 2 - 0 (H) vs ユーゴスラヴィア代表 (デュッセルドルフ) |
2次リーグ | 1974年06月30日 ○ 4 - 2 (H) vs スウェーデン代表 (デュッセルドルフ) |
2次リーグ | 1974年07月03日 ○ 1 - 0 (H) vs ポーランド代表 (フランクフルト) |
決勝 | 1974年07月07日 ○ 2 - 1 (H) vs オランダ代表 (ミュンヘン) |
1978年第11回W杯アルゼンチン大会 ..... 2次リーグで敗退(優勝はアルゼンチン) |
1次リーグ | 1978年06月01日 △ 0 - 0 (N) vs ポーランド代表 (ブエノスアイレス) |
1次リーグ | 1978年06月06日 ○ 6 - 0 (N) vs メキシコ代表 (コルドバ) |
1次リーグ | 1978年06月10日 △ 0 - 0 (N) vs チュニジア代表 (コルドバ) |
2次リーグ | 1978年06月14日 △ 0 - 0 (N) vs イタリア代表 (ブエノスアイレス) |
2次リーグ | 1978年06月18日 △ 2 - 2 (N) vs オランダ代表 (コルドバ) |
2次リーグ | 1978年06月21日 × 2 - 3 (N) vs オーストリア代表 (コルドバ) |
1980年代 〜 自国にて欧州選手権開催 〜 |
図面左は1982年スペイン大会で右は1986年メキシコ大会です。 西ドイツ代表は1980年代もその力を維持し続けました。1980年欧州選手権の優勝、1982年での準優勝はおの成果でした。さて1982年スペイン大会ではスペインは16チームから24チームに増えた出場チームをそれまでの大会と同様にホストする必要がありました。内訳は新しいルールに従いヨーロッパから13か国、南米から3か国、アフリカから2か国、アジア・オセアニアから2か国、北中米(CONCACAF)から2か国、これに開催国スペインと前回優勝国アルゼンチンが加えられ24ヶ国です。大会の形式にも変更が加えられ、1次リーグは4か国ずつ6つのグループで争われ、各グループの上位2チームが2次リーグに進み、2次リーグは3か国ずつ4グループに分かれ、各グループの1位チームだけがリーグ戦を通過し、最後に準決勝と決勝が行われるというものでした。西ドイツは2次リーグも突破しフランスと準決勝を戦いました。西ドイツがリトバルスキーのゴールでリードしたが、プラティニのペナルティー・キックでフランスが同点に追いつき、延長ではフランスが3対1でリードしましたが、西ドイツは猛反撃によって同点としPK戦の末勝利を手にしました。しかし決勝ではパオロ・ロッシのいるイタリアに敗退しました。 1986年W杯は最初コロンビアが選ばれましたが開催を実行する力がないと訴えメキシコに決まりました。そのメキシコも大会前の大地震で2万人もの命が奪われ大会開催は不可能かと思われましたが、スタジアムは影響を受けなかったためそのまま準備が進められることになりました。今回も4年前のスペイン大会と同じ24チームでしたが、大会の形式は変更されました。すなわち1次リーグ後の試合はすべてトーナメント方式で行われました。西ドイツは準々決勝でメキシコと無得点の引き分けとなりましたがPK戦で勝ち、開催国メキシコの優勝の夢を打ち砕きました。また本大会はアルゼンチンのディエゴ・マラドーナの一人舞台でした。しかし唯一彼の素晴らしいプレーの中で疑惑の目が向けられたのは、準々決勝のイングランド戦で最初のゴールはハンドではないかという物議を巻き起こしましたが彼は「神の手」による得点と称しました。一方西ドイツは決勝の常連でありながら最後のステップでアルゼンチンにやぶれ2回連続の2位でした。なお西ドイツは1988年自国開催の欧州選手権にて準決勝まで進出しましたが、ライバルである隣国オランダ代表と対戦し、最強オレンジ軍団の前に1-2で敗れ、つねにその強さを国際舞台で発揮するも、1980年の欧州選手権以降、無冠のまま1990年をむかえることになりました。 |
1982年第12回W杯スペイン大会 ..... 2位(優勝はイタリア) |
1次リーグ | 1982年06月16日 × 1 - 2 (N) vs アルジェリア代表 (ヒホン) |
1次リーグ | 1982年06月20日 ○ 4 - 1 (N) vs チリ代表 (ヒホン) |
1次リーグ | 1982年06月25日 ○ 1 - 0 (N) vs オーストリア代表 (ヒホン) |
2次リーグ | 1982年06月29日 △ 0 - 0 (N) vs イングランド代表 (マドリッド) |
2次リーグ | 1982年07月02日 ○ 2 - 1 (A) vs スペイン代表 (マドリッド) |
準決勝 | 1982年07月08日 ○ 5 - 4 (N) vs フランス代表 (セビリア) 1:1から延長戦に入り、延長後でも3:3でPK戦で5:4で勝利 |
決勝 | 1982年07月11日 × 1 - 3 (N) vs イタリア代表 (マドリッド) |
1986年第13回W杯メキシコ大会 ..... 2位(予選参加121ヶ国で優勝はアルゼンチン) |
グループリーグ | 1986年06月04日 △ 1 - 1 (N) vs ウルグアイ代表 (ケレタロ) |
グループリーグ | 1986年06月08日 ○ 2 - 1 (N) vs スコットランド代表 (ケレタロ) |
グループリーグ | 1986年06月13日 × 0 - 2 (N) vs デンマーク代表 (ケレタロ) |
決勝トーナメント1回戦 | 1986年06月17日 ○ 1 - 0 (N) vs モロッコ代表 (モンテレイ) |
準々決勝 | 1986年06月21日 ○ 4 - 1 (A) vs メキシコ代表 (モンテレイ) 無得点の引き分けからPK戦で4:1で勝利 |
準決勝 | 1986年06月25日 ○ 2 - 0 (N) vs フランス代表 (グアダラハラ) |
決勝 | 1986年06月29日 × 2 - 3 (N) vs アルゼンチン代表 (メキシコ・シティー) |
1990年代 〜 優勝そして世代交代の失敗で凋落 〜 |
図面左からは1990年イタリア大会、1994年アメリカ大会、1998年フランス大会です。 本大会は守りを固めた退屈な試合とPKによる勝利が多いという意見もありました。西ドイツとアルゼンチンとの決勝でもメキシコ人の主審が、ペナルティー・キックを西ドイツに与え(サポータの間で大きな論争を呼んだ)これが決勝点となりました。しかしドイツはユーゴスラビア(4対1)、オランダ(2対1)、チェコスロバキア(1対0)、イングランド(フルタイムで1対1、PK戦で4対3)を破っており、チャンピオンにふさわしいチームでした。1974年大会でキャプテンを務め、1984年から代表監督となった皇帝フランツ・ベンケンバウアーが率いるドイツは強い西ドイツ代表を維持するもタイトルには恵まれていませんでしたが、本大会ではマテウス、ブレーメ、フェラー、クリンスマン、コーラー、ヘスラーなどの逸材を揃え、ドイツに3度目の栄冠を獲得しFIFA ワールドカップで最も名誉ある国(3回優勝した国)として、イタリア、ブラジルに仲間入りしました。 1990年東西ドイツの統一とともに、ドイツ代表にもザマーらの東ドイツ出身選手が加わりました。しかし、ベッケンバウアー勇退後の90年に代表監督に就任したフォクツのもとでは、世代交代が進まず1994年アメリカ大会では準々決勝で敗退しました。アメリカでの1ヶ月を超える激戦は、358万7,538人という記録的な大観衆の前で展開されましたが、FIFA ワールドカップを3度ずつ制しているブラジルとイタリアの決勝の顔合わせに、過去の決勝と同様のすばらしいゲームが期待されたが実際には重苦しい展開となり、フィジカルなプレーばかりで落胆の大きい試合になり、結局FIFA ワールドカップ決勝の歴史上初めてPK戦となりブラジルがW杯を4度制覇したはじめての国になりました。 ドイツチームの高齢化が進む中、それでもフィジカルとゲルマン魂で何とかしようとするドイツが批判の対象となりましたが、1996年に欧州選手権を制したことがこうした世代交代の問題から批判の目を遠ざけてしまいました。そして1998年W杯にても新興クロアチア代表に準々決勝で敗退してフォクツは辞任、後任にはリベックが就任するもチームが再生することはありませんでした。さて1998年フランス大会ではそれまでは出場チーム数が24で、予選各組で3位であっても成績上位4チームが決勝トーナメントの16チームに入ることができましたが、32チームが64試合で争うことになり、1次リーグでは4チームごとの8グループに分かれこのような救済は不可能になりました。この大会では最初のグループ・リーグが生きるか死ぬかの戦いになり、そのため各チームは守備を固めるのではなく得点を挙げることに全力をあげ、最終的には64試合で171ゴールが記録されました。 |
1990年第14回W杯イタリア大会 ..... 優勝(予選参加112ヶ国) |
グループリーグ | 1990年06月10日 ○ 4 - 1 (N) vs ユーゴスラヴィア代表 (ミラノ) |
グループリーグ | 1990年06月15日 ○ 5 - 1 (N) vs アラブ首長国連邦 (ミラノ) |
グループリーグ | 1990年06月19日 △ 1 - 1 (N) vs コロンビア代表 (ミラノ) |
決勝トーナメント1回戦 | 1990年06月24日 ○ 2 - 1 (N) vs オランダ代表 (ミラノ) |
準々決勝 | 1990年07月01日 ○ 1 - 0 (N) vs チェコ・スロヴァキア代表 (ミラノ) |
準決勝 | 1990年07月04日 ○ 4 - 3 (N) vs イングランド代表 (トリノ) 1:1の引き分けからPK戦4:3で勝利 |
決勝 | 1990年07月08日 ○ 1 - 0 (N) vs アルゼンチン代表 (ローマ) |
1990年10月3日の東西ドイツ統一後はドイツ代表に |
1994年第15回W杯アメリカ大会 ..... 準々決勝にて敗退(予選参加147ヶ国で優勝はブラジル) |
グループリーグ | 1994年06月17日 ○ 1 - 0 (N) vs ボリヴィア代表 (シカゴ) |
グループリーグ | 1994年06月21日 △ 1 - 1 (N) vs スペイン代表 (シカゴ) |
グループリーグ | 1994年06月27日 ○ 3 - 2 (N) vs 韓国代表 (ダラス) |
決勝トーナメント1回戦 | 1994年07月02日 ○ 3 - 2 (N) vs ベルギー代表 (シカゴ) |
準々決勝 | 1994年07月10日 × 1 - 2 (N) vs ブルガリア代表 (ニューヨーク) |
1998年第16回W杯フランス大会 ..... 準々決勝にて敗退(優勝はフランス) |
グループリーグ | 1998年06月15日 ○ 2 - 0 (N) vs 米国代表 (パリ) |
グループリーグ | 1998年06月21日 △ 2 - 2 (N) vs ユーゴスラヴィア代表 (ランス) |
グループリーグ | 1998年06月25日 ○ 2 - 0 (N) vs イラン代表 (モンペリエ) |
決勝トーナメント1回戦 | 1998年06月29日 ○ 2 - 1 (N) vs メキシコ代表 (モンペリエ) |
準々決勝 | 1998年07月04日 × 0 - 3 (N) vs クロアチア代表 (リヨン) |
2000年代 〜 強いドイツへの回帰なるか 〜 |
図は2002年日本韓国大会です。 リベック率いるドイツ代表は、2000年欧州選手権を迎えたが大会前から既にチームは分解しており、1分2敗の最下位で1次リーグを敗退するという最悪の結果を残しました。もはや完全に崩壊したドイツ代表でしたが、リベックに代わって国民的な人気があるルディ・フェラーが後任の監督に就任。フェラーは、欧州選手権での選手の選出に基本的な問題はない、これに戦術理解を加えれば必ず元の強いドイツに蘇ると主張。彼らの潜在的な力が決して弱くないことを訴えました。その一方で、ダイスラー、バラック、ケールなどの若手を積極的に召集し世代交代を効果的に進めていった。その結果プレーオフとはいえ2002年W杯本大会への切符を確保しました。 2002年 FIFA ワールドカップ日本・韓国の決勝トーナメントでは、1998年フランス大会と同じ32チームが64試合を戦い161ゴールが記録されました(フランス大会では171ゴール)。本大会のドイツ代表に関しては、今回の決勝戦は監督にとってもキャプテンにとっても歴史に名を刻む機会を逃した試合となりました。監督のルディ・フェラーは、もう1勝すればドイツのフランツ・ベッケンバウアー、ブラジルのマリオ・ザガロに続いて選手としても監督としてもFIFA ワールドカップ優勝を果たすわずか3人目の人物となるところでした。一方キャプテンでゴールキーパのオリバー・カーンは今大会決勝戦の前まで失点はわずか1だけでブラジルを完封していれば、大会最少失点の記録を更新することができました。6月30日ドイツのオリバー・カーンは1958〜1966年FIFAワールドカップで活躍したソビエトの名ゴールキーパー、故レフ・ヤシンを記念してその大会の最優秀ゴールキーパーに与えられるヤシン賞を受賞することになりました。なおW杯2002日本・韓国大会の決勝トーナメントの全成績はここをクリックしてください。 現在ドイツ代表はその再生に着手したばかりでその再生の成否が2006年での自国開催での真価で問われます。 |
2002年第17回W杯日本・韓国大会 ..... 2位(優勝はブラジル) |
グループリーグ | 2002年06月01日 ○ 8 - 0 (N) vs サウジアラビア代表 (札幌) |
グループリーグ | 2002年06月05日 △ 1 - 1 (N) vs アイルランド代表 (茨城) |
グループリーグ | 2002年06月11日 ○ 2 - 0 (N) vs カメルーン代表 (静岡) |
決勝トーナメント1回戦 | 2002年06月15日 ○ 1 - 0 (N) vs パラグアイ代表 (韓国・西帰浦) |
準々決勝 | 2002年06月21日 ○ 1 - 0 (N) vs アメリカ代表 (韓国・蔚山) |
準決勝 | 2002年06月25日 ○ 1 - 0 (A) vs 韓国代表 (韓国・ソウル) |
決勝 | 2002年06月30日 × 0 - 2 (N) vs ブラジル代表 (横浜) |